みなさん、こんにちは。
もう2月も半ば。サクッと節分を通り越してバレンタインデーが迫って参りました。
今年もチョコを貰えるかな、職場の義理チョコ面倒くさいな、と男女の様々な思惑が交錯する季節でございます。
はい、そんなわけで、今日はバレンタインとは全く関係無い話をしようと思います。
まったく意味不明の前フリでごめんなさいね。
題して、映画「JOKERのジョーカーは新しい悪役像?」です。
自分の趣味に突っ走った映画談義ですが、お付き合いください。
先日アカデミー賞の授賞式を見ていました。映画もドラマも大好きな自分は年間を通じてかなりの本数を見るんですが、今年もこの季節が来たかと楽しみにしていました。
ノミネート作は「1917」や「ジョジョ・ラビット」「アイリッシュマン」等々、傑作ぞろいです。どれがオスカーを取ってもおかしくない中で、当初は前評判通りにホアキン・フェニックスさん主演の「JOKER」が本命だろうと予想していました。
ところが、フタを開けてみたら「パラサイト 半地下の家族」が圧倒的な存在感で各賞を席巻していったのに驚きました。外国映画に贈られる国際映画賞を先に受賞していたので、まさか作品賞まで獲るとは考えていませんでした。本当にすごいですね。パラサイトはまだ見ていないので、そのうち時間を見つけて劇場へ行こうと思っています。
……では、本題に突入しましょう。
映画JOKERで誕生したジョーカーは、歴代のバットマン・シリーズに出てきたジョーカーとは大きく異なるキャラクターでした。
これまで自分の中にあったジョーカー像(とくにダーク・ナイトに登場するジョーカー)は、生まれたときからのサイコパスで、その悪の才能を生死に関わる体験から開花させた人物でした。完全に吹っ切れていて、己の命も惜しいと思わず、その瞬間瞬間が楽しければ良しとする刹那主義者であり、あと先考えずに無法な行為を繰り返す凶悪犯です。
彼の最もすごいところは悪を周りに伝播させるカリスマ性があることでしょう。
一方、映画JOKERのジョーカーは、生まれ持った良心によって日々葛藤する普通の男性でした。賢明に社会に馴染もうとしたが馴染めず、良い人でありたいと願いながらも疎外され、理不尽な暴力を受け、しだいに社会が産み落とした怪物へと変貌していきます。
この一連の流れが今の格差社会の中で生きる人々の絶望感や閉塞感、息苦しさと共鳴し、劇場でジョーカーが誕生した場面を見た時に、観客は自分自身の中にもある抑圧された闇が理性を飛び越した瞬間の爽快感を味わうのです。
悪の主人公に感情移入し、クライマックスで心地よい解放を体験できる映画なんて他に見当たりません。
さらに、トッド・フィリップス監督は、この悪がやがて滅ぼされる運命にあることもブルース・ウェイン少年が仁王立ちしているシーンで描いています。個人的にはジョーカーの誕生以上に、このバットマン誕生の瞬間を捉えた演出にはしびれました。
成長したブルース・ウェインがバットマンとなり、ホアキン・ジョーカーと対決する作品を見たいと望むのは自分だけではないと思います。しかし、インタビューに答えたフィリップス監督の言葉によれば「本作は独立したもので大きなユニバースの一部ではない」と続編を撮る考えはないようです。残念なような、でも、それでいいような複雑な気持ちです。
結末については多くの方が考察を重ねているようですが、自分は素直に描かれたままを受け入れています。
まだ「新しいジョーカー」を見てない方は、ぜひご覧になってください。
不思議な清々しさを感じられますよ。
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